国家と教会 Ⅰ
散歩の途中で雰囲気のいい教会を見つけたので中に入って休憩しました。教会内を見回すとマリア像があり、十字架にはイエス様のお姿がありました。この教会はカトリック、または正教会の教会なのだと思いましたが、牧師さんとお話をして、そこは英国国教会の教会堂であることがわかりました。
英国国教会はプロテスタントとして扱われていますが、カトリック的な要素が強いのは、ローマ教皇庁との離別のきっかけが、政治的な対立によるもので、教義上の対立ではなかったことに由来します。そのため、儀式などの点でカトリックとの共通点が多いです。国教会自身は、二つの中間に位置するとの認識を持っています。

祭壇近く 十字架にかかるキリスト
英国国教会がローマ教皇庁と離別したのは、ヘンリー8世の離婚問題に端を発していることはあまりにも有名ですが、イギリスの宗教改革も大陸のそれと同様に深く政治的要素を含んでいます。
ヘンリーは1509年、スペイン国王の王女であるキャサリンと結婚しました。キャサリンは急死した兄アーサーの未亡人だったため、この結婚は教皇の特別許可を得て成立しました。1527年に、ヘンリーはこの結婚の解消を教皇に対して求めました。男子出生に恵まれなかったことが理由の一つとして考えられます。キャサリンとの間には、一人娘のメアリがいました。メアリは後に王女として即位しますが、当時は女性が王位を継いだ前例がなかったので、男子後継者が得られないということは、ヘンリーのチューダー朝にとっての危機でした。
これらの理由とともに、この離婚問題には外交上の問題も関係していました。キャサリンとの結婚は、スペインとの外交関係を結ぶための政略結婚でした。イギリスとスペインは、共にフランスと敵対していたため、両者が手を結ぶのは好ましいことでしたが、ヘンリーが離婚を考え始めた頃には国際情勢にはかなりの変化が生じていました。キャサリンの甥であるカール5世がハプスブルク家の後継者となったため、スペインが強大な権力を握っていました。そのため、イギリスが対抗しなければならないのは、フランスというよりも、ハプスブルク家となりました。キャサリンとの結婚は外交上の意味を失い、離婚に躊躇する理由はなくなりました。
ヘンリーはルターを批判した書を著して教皇から「信仰の擁護者」との称号を与えられていました。つまり、宗教改革には反対の立場を取っていました。キャサリンとの離婚も教皇の許可を得て平穏に行おうとしましたが、当時の教皇はカール5世の支配下にあり、ヘンリーの申し出に承諾を与えることができませんでした。ヘンリーとカールの間で板ばさみとなった教皇は、キャサリンに修道院入りを勧めましたが、キャサリンが拒否したために、ヘンリーをローマ法廷に召喚しました。そのため、1529年、ヘンリーは、以前から高まりを見せていた国民の教皇に対する反感に訴え、議会を利用して独自に宗教改革議会を開きました。
ヘンリーは、1534年に「国王至上法」を制定しました。国王はイングランド教会の地上における唯一の首長であると宣言することによって、カトリック教会からの分離を果たしました。
国家と教会 Ⅱ へ つづく
英国国教会の教会
英国国教会はプロテスタントとして扱われていますが、カトリック的な要素が強いのは、ローマ教皇庁との離別のきっかけが、政治的な対立によるもので、教義上の対立ではなかったことに由来します。そのため、儀式などの点でカトリックとの共通点が多いです。国教会自身は、二つの中間に位置するとの認識を持っています。

祭壇近く 十字架にかかるキリスト
英国国教会がローマ教皇庁と離別したのは、ヘンリー8世の離婚問題に端を発していることはあまりにも有名ですが、イギリスの宗教改革も大陸のそれと同様に深く政治的要素を含んでいます。
ヘンリーは1509年、スペイン国王の王女であるキャサリンと結婚しました。キャサリンは急死した兄アーサーの未亡人だったため、この結婚は教皇の特別許可を得て成立しました。1527年に、ヘンリーはこの結婚の解消を教皇に対して求めました。男子出生に恵まれなかったことが理由の一つとして考えられます。キャサリンとの間には、一人娘のメアリがいました。メアリは後に王女として即位しますが、当時は女性が王位を継いだ前例がなかったので、男子後継者が得られないということは、ヘンリーのチューダー朝にとっての危機でした。
これらの理由とともに、この離婚問題には外交上の問題も関係していました。キャサリンとの結婚は、スペインとの外交関係を結ぶための政略結婚でした。イギリスとスペインは、共にフランスと敵対していたため、両者が手を結ぶのは好ましいことでしたが、ヘンリーが離婚を考え始めた頃には国際情勢にはかなりの変化が生じていました。キャサリンの甥であるカール5世がハプスブルク家の後継者となったため、スペインが強大な権力を握っていました。そのため、イギリスが対抗しなければならないのは、フランスというよりも、ハプスブルク家となりました。キャサリンとの結婚は外交上の意味を失い、離婚に躊躇する理由はなくなりました。
ヘンリーはルターを批判した書を著して教皇から「信仰の擁護者」との称号を与えられていました。つまり、宗教改革には反対の立場を取っていました。キャサリンとの離婚も教皇の許可を得て平穏に行おうとしましたが、当時の教皇はカール5世の支配下にあり、ヘンリーの申し出に承諾を与えることができませんでした。ヘンリーとカールの間で板ばさみとなった教皇は、キャサリンに修道院入りを勧めましたが、キャサリンが拒否したために、ヘンリーをローマ法廷に召喚しました。そのため、1529年、ヘンリーは、以前から高まりを見せていた国民の教皇に対する反感に訴え、議会を利用して独自に宗教改革議会を開きました。
ヘンリーは、1534年に「国王至上法」を制定しました。国王はイングランド教会の地上における唯一の首長であると宣言することによって、カトリック教会からの分離を果たしました。
国家と教会 Ⅱ へ つづく
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