ビアナ宮殿
ビアナ宮殿は14世紀に建設された貴族のお屋敷で、1981年に博物館として一般公開されるまではビアナ公爵家の邸宅として使用されていました。
この宮殿には12もの美しいパティオがあり、別名、パティオ博物館とも呼ばれています。見学は、ガイドによる屋敷内のツアーと各自で行うパティオの散策です。パティオだけ見学することもできます。私は両方、見学できるチケットを買いました。ツアーはスペイン語で行われ、その他の言語の説明が必要な人には各国語のリーフレットが配られました。残念ながら屋敷内での撮影は許可されていませんでしたが、きらびやかすぎず、木のぬくもりが素敵な古めかしい家具に囲まれていました。
私はこの博物館のパティオが大好きになり、暑さを忘れて、長い時間をかけて見学しました。どのパティオも甲乙つけがたいほどに美しかったです。

木目が重厚なアンティーク家具
パティオに続くちょっとした空間にもこんなに素敵な家具がしつらえてあります。

The Well Courtyard
井戸のパティオです。井戸にはイスラム風の手桶が残されています。この井戸から湧き出る地下水がお屋敷にある全てのパティオの水源になっています。

The Madame Courtyard
マダムのパティオです。パティオの中心には水差しを持ったマダムを模った噴水があります。マダムは王冠の形に刈り込まれた杉の木の陰に佇んでいます。写真は壁一面に広がるジャスミンの花です。このパティオには濃厚なジャスミンの香りが漂っていました。

The Gardener's Courtyard
庭師のパティオです。かつてはここに庭師たちが使っていた道具が収められていました。一方の壁一面が緑で覆われています。

The Orange-Tree Courtyard
オレンジのパテイオです。6本のオレンジの木が噴水を囲むように立っています。

The Column Courtyard
ローマ風のパティオです。右手には教会の鐘楼を望むこのパティオでは、しばしばコンサートなどのイベントが催されます。グラナダのアルハンブラ宮殿のパティオを意識して作られた敷石は、中心に据えられた噴水を引き立てています。
そっくりさん
フェニックスの製品はパイレックスのものよりガラスに厚みがあります。この厚みは安っぽい印象を与えかねないので、好き嫌いが分かれそうです。私はこの庶民的なガラスの厚みが好きです。
Phoennix(フェニックス)は、1934年に Colonel P. V. W. Jell(コーネル・ジェル)によって創業されたガラス製造メーカー The British Heat Resisting Glass Company(ザ・ブリティッシュ・ヒート・レジスティング・グラス・カンパニー)のブランド名です。フェニックスの名の下に数多くの家庭用耐熱ガラス製品が製造販売されました。
このフェニックスは、しばしばパイレックスと混同されました。パイレックスとフェニックスは名称もトレードマークも似ています。これは、フェニックスがパイレックスに対抗するために作為的に行ったことのようです。しかしながら、双方ともに別の特許を収得していおり、フェニックスは、パイレックスはアメリカ企業であり、自分たちこそが国産オリジナル製品の製造を行っているとの主張をしていました。
商品の価値を決めるのはいつも消費者です。ここではフェニックスには軍配が上がらず、1970年には会社は倒産の危機に追い込まれました。フェニックスはパイレックスの製品をイギリス国内けにライセンス販売していたJ. A. Jobling of Sunderland(略してJAJ)、つまりはライバル企業に売却され、その歴史に幕を下ろしました。
ユダヤ人街
メスキータから程近く、白壁に囲まれた道がまるで迷路のように入り組んでいる場所があります。そこはユダヤ人街です。かつてはコルドバの経済を支え、カリフたちに優遇されたユダヤ人たちでしたが、レコンキスタによってこの地を奪回したキリスト教徒によって追放されました。

どこまでも迷路のように続く白壁の道
どこまでも続く迷路のような道と白壁は目に美しく、散策するだけでも楽しいものでした。ただ、建物が密集しているせいかとても蒸し暑く感じられました。シエスタの時間に重なったせいなのか、はたまた、店主が夏のホリデーを楽しんでいるからなのか、カフェやお土産屋さんの多くがお店を閉ざしていたのが残念でした。

シナゴカ
ここユダヤ人街にはシナゴカ(シナゴーグ)があります。1492年に出されたユダヤ人追放令により、スペインのユダヤ教徒は国外に追放されました。スペイン全土でもシナゴーグが残されているのは、ここコルドバのユダヤ人街とトレドに2箇所を残すのみです。

美しいパティオ
白い小道を彷徨っていると美しいパティオにたどり着きました。周囲にはお土産屋さんが軒を連ねていましたが、開いているのは1軒のみでした。コルドバの街を歩いていると時々、はっとするくらい美しいパティオに出会います。見学可能なパティオの多くはお店やレストランのものですが、一般家庭でもパティオを美しく飾って散策する人々の目を楽しませてくれます。5月にはパティオ祭りが開催され、その美しさを競います。

花の小路
小路を抜けると小さな噴水のある広場に出ます。そこで後ろを振り向くと、美しいメスキータのミナレットを仰ぎ見ることができます。


ユダヤ人街へと通じる外壁
プーの慰労会
今回は値段がどうであれ、どうしても欲しいというものには残念ながらめぐり会うことができませんでした。しかしながら、早起きをしてせっかく来たのだから、何か一つくらいお土産を持って帰りたいという一心で探しに探してやっと見つけたのがこのお皿です。
このお皿こそがケンプトンパーク・アンティーク・マーケットでの唯一の戦利品です。わざわざアンティーク・マーケットまで出かけて、ジャンクのお皿を買う必要もなかろうにと自身に苦笑してしまいましたが、今では数ある私のコレクションの中でも大のお気に入りの一枚となりました。
なぜって、みんなは、「プー、あけてごらん。」とか、「それ、なに、プー?」とか、「ぼく、なんだか知っているよ。」とか、「きみ、知ってるもんか。」とか、なにかほかにも、おなじように役にたつことをいっていたからです。もちろん、プーは、できるったけ早く、その包みをあけていました。
「クマのプーさん」より A.A.ミルン:作 E.H.シェパード:絵 石井桃子:訳
このパートナーシップは1874年に解消され、1903年にはタムスが John Tams & Son を設立しました。数回の社名変更を経て、2002年には Tams Group Limited(タムス・グループ・リミテッド)として欧州では最大のマグカップの生産量を誇るまでになりましたが、2006年にはその歴史に幕を閉じました。
メスキータ
コルドバに観光旅行に出かけた人の多くが必ず訪れるのはメスキータです。メスキータはスペイン語でモスクという意味ですが、ここコルドバにある「コルドバの聖マリア大聖堂」を示すのが一般的です。かつてのモスクは現在、カトリック教会として機能しています。

メスキータ外観
もともとこの場所にはカトリック教会が建っていました。イスラム教徒が勢力を伸ばし、イベリア半島に侵入してきた後ウマイヤ朝(756年-1031年)の時代に、そのカトリック教会はモスクとして使用されました。8世紀にはアブデラマン1世によってモスクの拡張工事が行われました。その一部は現存します。しかし、13世紀にレコンキスタによってコルドバがキリスト教徒によって奪還された後は、この巨大なモスクは再びカトリック教会として用いられるようになりました。16世紀に入ってから、モスク中央部にゴシック様式とルネサンス様式の折衷の教会堂が建設され、現在のような世にも不思議な教会が完成しました。

円柱の森
メスキータの内部には円柱と赤と白の縞模様のアーチが無数に広がっており、広々とした宇宙的な空間を演出しています。この円柱は世界各国の異なる時代や様々な様式の建築物から転用されたものです。そのため、長さを補うためにアーチが用いられました。このアーチは、赤いレンガと白の石灰岩を交互に楔状に配した構成となっています。

カトリック風にデコレーションされたアーチ
シンプルな円柱と二色のアーチは無限に広がる空間を作り出しています。これは、イスラム教の「すべての人は神の前で平等である」という教義に基づき、神に祈る一人一人のために無限に連なる祈りの空間を体現したものです。
縞模様のアーチがカトリック風にデコレーションされると写真のようになります。天上の神への祈りを体現したいという思いはキリスト教徒もイスラム教徒も同じでしょうが、私はシンプルなイスラム芸術に軍配を上げます。
歴代の王は人口の増加とともにメスキータの拡張工事を行ってきました。アルハキム二世の時代(961年~968年)は、王はカリフを名乗り、イベリア半島のイスラム国家は、政治、宗教の両面で独立を遂げました。その権力の象徴として現存するミフラーブと共に王が礼拝するマクスーラ(貴賓席)が設けられました。

カトリックの祭壇
私は教会フリークで特にカトリック教会が大好きです。しかしながら、メスキータ内を見学していると、カトリックの荘厳な装飾よりもイスラムのシンプルで力強い芸術に潔さを感じました。円柱の森の他に装飾がなければどんなに美しかっただろうにとさえ思いました。広い空間に無限の宇宙的広がりだけを残したイスラム芸術に深い感銘と敬意を表します。

イスラム教とキリスト教の見事な融合
イスラムの楔形模様のアーチのなかに十字架にかかるキリスト像が見事に溶け合っています。宗教観は異なっていても、美しいものを破壊せずにそのまま残して取り入れるという精神が生んだ見事な調和の芸術です。実生活のなかでもこのような寛容の精神が息づいて欲しいと願うのは私だけではないはずです。

オレンジの中庭にそびえるミナレット
念じれば叶う
家に帰ってからインターネットでスタイルクラフトについて調べていたところ、赤いバラのモチーフが鮮やかなお皿を見つけました。花柄フリークで、特にバラが好きな私にとっては垂涎ものの逸品でした。いつかどこかでめぐり会える日が来たならばと、溜息をつきました。
次の日は恒例のカーブーツセールでした。コンピューターの画面上で見ていたお皿とティーポットが入り口に程近い場所のストールで無造作に土の上に置かれていました。私は驚愕のあまりしばらく息をすることも忘れてしまいました。
食器を購入する際にはいつもしつこいくらいに状態を確認する私ですが、この日ばかりは考えるより先に売り手にお金を渡していました。私が購入したのはティーポットとソーサーとお皿のセットです。ティーカップがないことと、ティーポットの状態がよくなかったことから破格の値段で購入することができました。
Carmen(カルメン)は1960年に発売されました。John Russell(ジョン・ラッセル)のデザインです。このセットのカップとミルクジャグは黒です。甘い花柄が好きな私にとってはあまり嬉しくない組合わせです。ティーポットのフタが黒いのも好きではないのですが、ポットの形と真紅のバラ模様の美しさをこの目で見てしまうと、フタなどはどうでもよくなりました。


おばあちゃんの家にありそうなお皿です。
残念なことにティーポットにはひびが入っていてその部分からお湯が染み出てきてしまうので、実用には適しません。かわいくない黒いフタをとってドライフラワーをディスプレーしたり、ハーブを植えたりするといいかもしれません。
カトリック両王のアルカサル
スペイン語で城を意味するアルカサルはスペイン各地にあります。コルドバのアルカサルはカトリック両王のアルカサルという名称で親しまれています。ホテルでもらった観光案内によると、閉館が午後2時30分と早かったので朝食後、すぐにホテルを出発してアルカサルに向かいました。

カトリック両王のアルカサル
まずは門をくぐって階段を上りました。高台の踊り場からはコルドバの街並みとアルカサルの美しい中庭が一望できました。城外は無料で見学ができるのだろうかと首をかしげながら、次は城内を見学しましたが、どこまで行ってもチケット売場が見つかりませんでした。そこで観光案内を確認すると、水曜日は無料開放と書かれていました。得した気分になりました。通常の入場料は4ユーロです。
このアルカサルですが、城内には現存する世界最大のモザイクが展示してある他は、特に見所はありませんでした。それよりも南国の花々が咲き乱れるアラブ式庭園が大変、美しかったです。

城壁と眩しい太陽とそびえ立つ椰子の木
今日に残るアルカサルは1386年、アルフォンソ11世によって建設が開始されました。レコンキスタが本格化し、コルドバがキリスト教徒の手によって陥落して後のことでした。
もともとこのアルカサルは、ウマイヤ朝の一族であるアブド・アッラフマーン1世の後継者たちの王宮として用いられていました。当時のコルドバは、国際的、政治的、文化的中心となり、繁栄を極めました。

アルカサルの美しい庭園
アルフォソンは、かつてムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)たちが使用してきたアルカサルの一部を保存し、ムデハル様式(イスラム教とキリスト教建築の融合したスタイル)で新しく王宮を建設しました。レコンキスタに熱心に取組み、何度もアンダルシアのイスラム軍を攻め落としたアルフォソンが自らの城にイスラム建築を用いたのは興味深いところです。


ハイビスカスと南国の花々が咲き乱れる
コルドバのアルカサルはカトリック両王のアルカサルとよばれています。この名称は、ローマ教皇によりカトリック両王の称号を与えられたイザベル女王とフェルナンド2世に由来します。彼らはアルカサルを自らの居城としてだけでなく、スペインでの異端審問の場としても用いました。また、このアルカサルは、アメリカ大陸を発見したコロンブスがカトリック両王に謁見したことでもよく知られています。
(※ガイドブックのこの部分を読んで異端問題が解決しました。)

庭園からアルカサルを見上げる
1808年から14年まで続いたスペイン独立戦争の際にはこのアルカサルは要塞として機能しました。その後は刑務所として使用されていましたが、1950年代には観光名所として一般公開されています。